もちろん「現在この社会・コミュニティでは人はセクシュアリティのカテゴリーに入れられてしまうのであって、それを拒否したら生きては行けないし、権利も何一つ手に入らない。だからカムアウトする利益の方が多いのだ」という主張が持つ正当性には納得が行く。しかしそれはあくまでその地域、その時代にその文化・政治・宗教・道徳的背景があるから言えるだけの話であって、「他の場所でもそのような状況になるべきだ。まだそうなっていない地域、つまりカムアウトしない利益の方が大きい地域は、遅れていて、クィアにとっては生きづらいはず。だから変わるべきだ」とは言えない。また、カムアウトする利益の方がしない利益よりも大きいように見える社会・コミュニティにおいても、そこに住む人々全員にとってそうであるとは限らないし、あるいは、そこで語られる「利益」自体を望んでいないとか、カムアウトすることによって失われるものを失いたくないとか、様々な理由でクローゼットを貫く人もいるだろう。しかし彼らのそれぞれの状況を「事情」と呼び、彼らのその判断を「苦渋の決断」であるかのように語るのは、あたかも自分たちには「カムアウトすることの利益の方が大きい」という「事情」(!)がないかのように振る舞い、自分たちの方が他の人たちよりも「自由な判断」(!)が出来ているかのように語ることだ。
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日本、カリフォルニア、ニュージーランドで育った、社会学専攻の研究者・活動家志望フリーターです。クィア理論、障害理論、公衆衛生、文化人類学と文化史などに興味を持って勉強しています。 G.R.E.A.T. Japan [グレートジャパン] 設立者および代表。フェミニズムの歴史と理論サイトの共同運営者兼執筆者。
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